【第108期講座】2012年10月-2013年03月

宮台 真司の講座リポート


■はじめに
 宮台真司氏は、社会学者としてさまざまな角度からフィールドワークを行い、現代社会の問題に鋭く切り込み、日本の未来に向けての提言をしている。
 現在の日本のリーダーに対しては、「沸点が低い」と指摘し、戦略的発想と対応ができないことが大きな問題であると語っている。尖閣問題や拉致問題にしても、日本の政治家は中国や北朝鮮に対して沸騰してキレるのではなく、冷静に外交交渉をしなければならないという。たとえば、尖閣問題で中国海軍がミサイル照射をしたときでも、怒りをあらわにするのではなく、中国にミサイル照射の事実を提示して、「今後このようなことがあれば世界にこの非常識な行為を発表するが、それでいいか?」と迫るといった方法があるはずだ。日本が幼稚な外交しかできないのも、リーダーの沸点が低いところに問題があるのではないかとの指摘は考えさせられる。
 日本社会全体が沸点をもっと高くして、困難な問題に立ち向かうために考えを深めることが大切なのだと気づかされる。沸点が低いのは安心感や安全感がないからで、不安を取り除いていけば、自然と沸点は高くなるのだろう。リーダーが泰然として的確な判断ができるようになるのも、情報のアンテナを高くして教養や感性を磨くところから得られるものであるのかもしれない。
 本講座では、宗教の歴史をふまえて社会を分析し、現代社会に生きるための知識と知恵を分かりやすく提示していただいた。

■「世直し宗教」と「癒しの宗教」
 宮台氏によれば、宗教史のなかであらわれた宗教には二つのタイプがあるという。ひとつは「世直し宗教」で、現世を救済することを標榜するもの。もうひとつは「癒しの宗教」で、来世に救済されるというものである。「世直し宗教」の代表は日蓮宗をはじめとする法華経を経典とする宗教で、「癒しの宗教」は親鸞の浄土真宗をはじめとする浄土信仰が代表的な宗教である。
 「世直し宗教」から「癒しの宗教」をみたとき、来世に救済があるとすればどんなに現世が苦しく辛いものであったとしても政治や経済の体制を変えることができず、社会のシステムが発展しなくとも良いことになり、社会体制を批判することができないという問題が残る。また「癒しの宗教」からすれば、「世直し宗教」によって社会が変革された後に改革者が独裁者に変じる危うさが問題であるという。
 それでは宗教と社会の関係性は歴史の中でどのようなものであったのだろうか。

■宗教史と社会との関係性
 社会は、紛争を処理し、手打ちのシステムとして「法」がある。そして集団の決定を担うメカニズムとしての「政治」、資源分配のシステムとして「経済」がある。また、何が真理であるのかを知るためのコミュニケーションシステムがあると宮台氏は指摘する。
 現代社会では宗教・政治・経済は分化されたシステムとなっているが、古代の社会や未開の社会では例外なく未分化であった。すなわち権威ある者が権力をもち、愛も評判も独り占めして、資源配分の権能ももていた。それは宗教的に構成されて、配分、命令と服従、集合的決定、紛争の処理や手打ちも行われていた。
 現代では宗教がさまざまなサブシステムの中でも周辺的なものに思う人は多いかもしれないが、昔は社会の中核に宗教があったことは間違いない。

◆宗教の定義
 宮台氏によれば、19世紀末から今日にいたるまで宗教定義論が展開されてきたという。

①聖/俗
 聖と俗の観念をもってコミュニケーションする人たちは宗教的に生活していると定義する。内側は聖であり外側は俗であるとか、祭りは聖であり暮らしは俗であるという二元的な視点は、その境界線が曖昧となってしまう。日本においても祭りというハレ(聖)の日はお酒を飲み、舞い歌う。どんどんテンションが上がっていくとトランス状態、変性意識の状態が起こることがある。その体験は宗教的体験と称されるが、実はトランス状態とか変性意識の状態は、超スピードの体験、ドラッグ、低音で響く鳴りものや踊りなどでも起こる現象である。そうなると、変性意識をもたらすものは宗教であるのかという疑問が湧いてくる。俗でありながら聖なる体験ができるとなれば、そこには聖と俗の境界線が曖昧とならざるを得ないところに、この定義の問題点があるという。

②パラマウント・リアリティ(至上的価値)
 存在には前提づけるものと前提づけられるものがある。たとえば、私という存在を前提づけるものは親であり祖先であるし、生まれた国があり、地球があり、宇宙があるというように時間的に遡ることができる。そして行き着くところは、アリストテレスが言う宇宙を生み出した第一原因ということになる。旧約聖書の創世記には、宇宙が始まる前に絶対神があるといい、これを前提にして宇宙は生まれたという。また何かが起こったときに、これは何故かと問えば、究極的に神の計らいであるかといったところまで行き着くという研ぎ澄まされた状態が宗教的状態であるという。
 これに対して宮台氏は、それではアメリカの合衆国憲法の修正第一条の「信教の自由」というのは、思想・信条・表現の自由を守るための人権規定であるが、これは至上的価値ということができないであろうかと指摘する。さらに科学万能主義者が、「すべて最終的に価格で説明できる。すべての前提は科学にある」とするとき、これもまたすべて遡って最後の立場に合致してしまう。
 これでは宗教とそうでないものとの区別をすることに失敗してしまうと、この至上的価値による宗教の定義の問題点が指摘される。

 そこで宮台氏は宗教を次のように定義する。
③前提を欠いた偶発性を無害なものにして、受け容れ可能にする機能を果たすもの
 つまり、不条理や理不尽を受け容れ可能にさせる装置が宗教であるということ。突然襲ってくるガンなどの病気、事故や災難など、何の前提もないように思える出来事は、不条理であり理不尽である。その理不尽な出来事に対して、受け容れを可能にするのが宗教であるという指摘は興味深い。
 私たちの周囲にある偶発性の多くは、前提のあるものばかりである。受験に成功するかしないかという偶発性は、勉強し努力をすれば合格に限りなく近づいていくので合格する可能性が大きくなる。普段から食生活に気をつけ、健康のために努力をしていれば病気になるという偶発性は小さくなっていく。
しかしその前提を欠いた偶発性は不条理であり理不尽であるため、なぜこのようなことが起こったのかについて、「神の計らい」とか「天の意志」というように意味づけ、その苦しみを受け容れられるように宗教が機能するというものである。

◆宗教史と社会の関係性について
①最も古い宗教・・・原初的宗教、アニミズム
 最古の社会、共同体にとって天変地異による災害などは理不尽な体験としてあった。誤の神が怒り、川の神が怒るとき、共同体のすべての人たちが神の怒りを鎮める儀式を行った。それは共同体の誰かが神の怒りをかっているとするからであり、その怒り鎮めるために儀式を行うものである。

②古代宗教・・・神の戒律、律法、摂理に従う
 BC.2500年頃にはさまざまな共同体がまとめられた会が出現すると、神の怒りを儀式で鎮めるというアニミズムの段階から、神の言葉による戒律や律法など、法やルールによってシステムや仕組みがつくられて、人々はそれに従うといった宗教へと変化していった。

③中世的宗教
 宮台氏は、ユダヤ教に代表される戒律を守れば救われるという宗教から、イエスの教えによるキリスト教が信仰による救いを提示したことにより、宗教は大きく変わったと指摘する。イエスキリストは、戒律を破ったから救済を受けられないというのではなく、戒律を守ることができないのであり、人間のもつ罪は信仰によらなければ真に救済されないと語った。
たとえばモーセの十戒には、「汝 姦淫するなかれ」とあり、ユダヤ教では姦淫は石打ちの刑に処せられる。これに対してイエスキリストは、「情欲をもって女を見しものは、すでに姦淫の罪を犯したり」と語り、娼婦であったマグダラのマリアが人々から姦淫の罪に問われたとき、イエスキリストは人々に向かって「罪なき者が石で打て!」と喝破した。それは十戒の中で「人を殺すな」という戒めも同様であり、心のレベルで姦淫や殺人を犯さない人はいないと、心の奥底にある罪を贖うためには「信仰」が必要であると説いた。
このように信仰を義とする宗教は、共同体としての宗教から個人の信仰という宗教へと形を変えていくことになった。これは日本においても同じように鎌倉の新仏教が民衆へと伝わっていき、多くの宗派に分かれていく。
ユダヤ教は民族宗教であったが、キリスト教は個人の信仰に救済があるとして民族や国家を超えて世界宗教となった。

④近代の宗教・・・世俗化が始まる
 近代になると、宗教は世俗化が始まった。それは社会から宗教が無くなるのではなく、宗教が社会の政治的な決定とは無関連となった。特に市民社会が次々に現れるようになると、宗教は社会と無関連に動くようになったと宮台氏は指摘する。つまりは世俗化は信仰しなくなるという宗教にとっては危機的状況ということでもある。

 それでは現代において、不条理や理不尽な出来事に対して宗教はどのように処理しているのだろうか。
 宮台氏によれば、宗教に求めるものではまず「ご利益祈願系」があるという。これは呪術的に神様にご利益を求めて祈るというもの。そしてもうひとつは「意味追求系」で、自分探しなどの人生にどのような意味があるのかを求めていくというものだという。
 「意味追求系」にはさらに二つのタイプがあり、ひとつは「修養系」で、理不尽なことが起こったのはまだ自分自身の修行が足りないので、そのステージを上げるためにさらに修行するというように目の前の苦悩を受け容れようとする。これは自己啓発やコーチング系につながるものである。
そしてもうひとつは「黙示録系」であり、この世には終末がやってくるので、目の前の苦難はその神の計画と摂理なのだとして受け容れようとする。この「黙示録系」に生きる人たちは神の計画を知って、神から使命を与えられたという召命感を感じるようになる。

■妥当な民主制は自立した共同体を要する
 宮台氏は、原初の宗教から古代宗教を経て中世的宗教にいたるまで、共同体と宗教の関係は強い結びつきがあったが、近代の宗教では世俗化が始まり共同体から離れて、人々は信仰しなくなっていったと永い歴史を俯瞰する。そして宗教を必要とせず共同体から離れた人々は不安と鬱屈をもたらし、人から認められるのであれば何でも言うことによって、溜飲を下げるのだと指摘している。
 したがって妥当な民主制には自立した個人が必要であり、その自立した個人には自立した共同体がなければならないと宮台氏は強調する。自立した共同体とは、個人が出撃・帰還するホームベースであり、個人が自立するための基盤となるという理解が大切である。
 たとえばグローバル化を例にあげてみれば、それは資本移動の自由化であり、先進国の企業が新興国で競合状態となり、所得配分の切り下げはさまざまな資本流出と工場の海外移転をもたらす。そして貧困化によって格差が進み、中流層が分解し共同体は疲弊する。これにより個人は出撃基地と帰還場所を失い、剥き出しになってしまう。このような個人は危うい状況に置かれて、鬱屈し、沸点が下がり吹き上がりやすくなるという。
 これまで社会が右肩上がりだったところから成長が止まり、暗転して右肩下がりとなってしまったら、当然に将来不安が大きくなっていく。だからこそ個人には自立した共同体が求められているのだと思う

■むすびにかえて・・・個人が出撃・帰還のできる「ホームベース」を
 宮台氏によれば、宗教とは「前提を欠いた偶発性を無害なものとして、受け容れ可能にする機能」であり、社会の中で機能するべきものであった。しかし近代の市民社会の中で宗教は社会と無関連なものとなり、個人が①ご利益を願う、②意味を追求するという機能を担うものになっている。そして②意味を追求する人々にとっては、理不尽な出来事は修養の機会であり、神の計画、摂理であると理解して受け容れようとする。
 しかし共同体として宗教を必要としなくなった現代社会は、個人のホームベースをもたない限り感情的安全の保障を得ることができない。問題は個人の感情的安全が脅かされないホームベースをつくることであると宮台氏は強調する。
 歴史的に宗教が果たした役割と人間の社会との関係性は、私たちの暮らしに大きな影響を与えていることが再認識させられた。そして個人を支える共同体(コミュニティ)をもっていることの大切さを痛感する。また底の抜けた社会であるからこそ、自立した共同体をもつことが求められるのであろうと思う。