【第95期講座】2006年01月-2006年06月

金田一 秀穂の講座リポート



■はじめに
金田一秀穂氏は、最初に「日本語はかくあるべし」とは言わずにむしろ「心地よい日本語が大切」とわかりやすい口調と親しみあふれる笑顔で語られた。正しい日本語、美しい日本語とは生き生きとした暮らしの中に使われている人々の中にあるとの指摘は、聴講する多くの会員にとって目から鱗が落ちるような新鮮な感動があったのではないだろうか。
今回は国語学者の家系にあって日本語を見つめ続けてこられ、また実際に日本語の教育に携わっている現場から日本語と日本の文化を語っていただいた。
■大人の日本語能力とは
アンケートによれば多くの人が正しい日本語のイメージはNHKのアナウンサーにあると思われるが、そのアナウンサーもプライベートではカメラの前のような丁寧な言葉は使わないのではないか。つまり私たちはいろいろな種類の日本語を場面に応じて使い分けており、その場にふさわしい日本語を使うことができるように求められている。フォーマルな場では丁寧な言葉を使い、友人同士ではくだけた会話ができるし、家庭ではそれぞれの家風が現れる言葉が使われるといったように、適切に使い分けできることがより豊かな人間関係をつくりだす。
「その場にふさわしい言葉を使い分けできることが大人の言語能力である」と金田一氏は語る。つまり正しい日本語や美しい日本語がそれ自体あるのではなく、どのようにその場にふさわしい言葉を使いこなし、相手を心地よくさせることができるかが言葉の美しさを生み出すということになるという。

■敬語の意味するもの
金田一氏によれば、敬語とは相手に敬意をもって丁寧に接することが基本にあるという。どんなに敬語を駆使して丁寧な言葉を使っても、相手に敬意や丁寧さが伝わらなければ敬語にはならない。敬語を使うことによって相手に丁寧さが伝わらなければ、かえって敬語によって相手に不快感を与えるというのである。
皇后美智子様が被災地を訪問して被災者にお声をかける姿がテレビに映し出されるが、とても丁寧な言葉に多くの人が感動する。敬語は相手を丁寧にもてなし、心地よさをつくりだすことを目的として使うものであることをあらためて感じる。
コミュニケーションには言語3割、非言語7割というものがある。どんなに丁寧な言葉を使うことができても、自らの衣装や姿勢、口調などのバランスがとれていなければ相手に与える印象は大きく違ってくる。金田一氏は、敬語と衣装や姿勢や口調がマッチしていなければ、かえって相手に違和感と不快感を与えてしまうといったことにいろいろな場面で遭遇すると主張しておられた。

■相手を高める敬語、自分を高める敬語
敬語は相手への敬意と丁寧さをあらわすが、それは相手を高めることでもある。
また敬語は自分自身を高めることにもなっている。それなりの地位にいる人やきちんとした姿形で「この人はこういう言葉を使うにちがいない」と思われる人が敬語を使うとその言葉には違和感がない。きちんとした敬語を使うことで自らの立場を示すことにもなるのだが、その人の立場と言葉が合っていなければ悲劇的である。
男と女ではどちらが敬語を使うかというデータをみると、圧倒的に女性が男性よりも敬語をよく使うという。これは男尊女卑だからというわけではなく、女性が女性に向かって敬語を使うことが多いところに特徴があるという。それは女性が女性に向かってより丁寧に言葉をつかうことで、自らを高め、より上品であろうとするためではないかと指摘をされている。
金田一氏は、日本語は相手との関係によって自己を規定すること、また自分を規定することで相手の位置と関係を決めるという。それで日本語には一人称がたくさん存在し、それによって相手の位置と関係性が決まってくるところがとても特徴的である。「わたし-あなた」「ぼく-きみ」「我-汝」というように一人称に応じて二人称も変化する。これは日本人の多様な人間関係の豊かさを生み出すものでもあると金田一氏は指摘する。
敬語を使うというのは、いつ、どこで、どのような場であるかをわきまえるといった教養が求められることでもあるとあらためて考えさせられた。

■コンビニ敬語について
ファミリーレストランなどでコーヒーを頼むと、「こちらコーヒーになります」と言われることが多い。金田一氏は密かに「コーヒーになる前はなんだったんだろう」とつぶやいてしまうと言って会場から爆笑をかっていた。アルバイトをしている学生にこのことを聞いてみると、「コーヒーです」と言えばぞんざいな感じがするし、「コーヒーでございます」というには丁寧すぎるので、なんとはなくその中間的に「コーヒーになります」と言うらしい。
金田一氏によれば、日本語はものごとをはっきり言わず、ぼかすことにより丁寧さを伝えることができるという。それが「なります」という表現であり、「こちら会計の方になります」といった「~の方」という方向を示してはっきり表現しない言葉づかいになるとのことだった。また「よろしいでしょうか」を「よろしかったでしょうか」、「ありがとうございます」を「ありがとうございました」と過去形にするのも、より丁寧な感じを出すために自然発生的に出てきた表現であると指摘された。

■返事のいらない接客敬語
またコンビニなどで使われている「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」などの接客敬語は、丁寧に接するというだけではなく、なるべくお客様と会話をしなくてもすむように、他人行儀、マニュアル的、機械的なもので距離感をつくろうとしているのではないかと金田一氏は感じるという。
「いらっしゃいませ」をベートーベンの運命「ジャジャジャジャーン」にのせるとコンビニ敬語になるという笑い話がある。「いらっしゃいませ」は「気がついてますよ」、「ありがとうございました」は「お支払いは終わりましたよ」という合図程度ではないかとの指摘には賛否両論があるだろうが、外れていないなという感じはする。
自動販売機をはじめ、なるべく会話のいらないシステムが私たちの周辺には満ちているのには、日本人はおしゃべりが苦手で、気の利いたコメントができないところに原因があるのではないかと金田一氏は分析する。立食パーティなどで、知っている者同士だけで話をして島をつくるのは日本人が多く、外国人は積極的にいろいろな人に話しかけてその場を楽しんでいるのをみても金田一氏の発言には思わずうなずいてしまう。

■日本の文化と日本語
金田一氏はアメリカでの4年間を振り返り、アメリカ人はよくしゃべるとの印象を強くもったという。とにかく会話をしなければ暮らしていけないとユーモアを交えて語ってくださった。サンドウィッチを注文するのにも、どんなサンドウィッチなのかを窓口で話さなければならない。ハムサンドを注文しても、パンの種類、野菜をどうする、バターは塗るのか等々、細かく注文をしなければならない。日本の店頭にはいろいろと並んでいるから指をさせば好みのサンドウィッチが注文できるのに、アメリカはいろいろと会話をしなければならない。エレベーターに乗れば、女性と二人きりになっても挨拶をし、天気のことやいろいろと会話が生まれる。日本でエレベーターに乗って女性に話しかけると、逆にとんでもない誤解を生むことになりかねないことを思うと、日本とアメリカの違いは一目瞭然である。
日本ではあまり語らずとも、相手の先回りをして配慮し、ものごとのスムーズに進んでゆくことが美徳とされている。茶道や華道にみられる所作には無駄な会話などなく、静かに黙々と進められることが何より大切なことである。
金田一氏はこの日本の文化には日本人の会話が苦手であることが影響しているのではないかと思うことがあるという。これは大変興味深いことである。

■「まとめ」にかえて
正しい日本語や美しい日本語というものはなく、日本語をどのような場面でどのように使い分けるかによって、正しさや美しさが生まれるということ。そして敬語は相手を高め、自分自身を高めるものであるが、相手に敬意と丁寧さを伝えるものでなければならず、さらに「心地よさ」を与えるものでなければならない。
また日本語は暮らしとともに変化し、出会う人々によっても変わる。暮らしの中に生き生きとした言葉が交わされ、そこに豊かな営みをみることが大切であり、生きた日本語を使うことこそが、何より大切なことであると金田一氏は強調される。
金田一氏の「一番正しい日本語を使っているのは皆さんです」という言葉がとても印象的だった。

 【ひとりごと】
「かんがえるカエルくん」という絵本がある。その中でカエルくんが「ぼく」を考えている。ねずみくんをジーッ見つめて「ぼくはぼくなのに、ねずみくんもぼくなんだ」と不思議がる。やがて「ぼくもねずみくんからみると、きみになる」と気づくようになる。「君たちがいて僕がいる」とは吉本新喜劇のチャーリー浜のきめ台詞であるが、日本語の豊かさは一人称の豊かさにあると金田一氏の講演を通じてあらためて感じた。
そこで一人称にふさわしい二人称についてどうぞ。
○ぼく-**、○わたし-***、○おら-***、○わし-***、○拙者-**、○みども-***、○わて-***、○我-*、などなど
金田一氏は日本語の一人称は100以上あるとのことですから、この機会にいろいろな一人称と二人称をみることで、周辺の人間関係の豊かさを味わってみてはいかがでしょう。

本リポートはTCC会員様の特典となっておりますので、転送・配布等はご遠慮ください。

2006年3月3日発行  NPO法人ザ・シチズンズ・カレッジ

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 【質疑応答】

■Q:子供たちの英語教育について、どのようにお考えですか?
金田一:英語教育を小学校からするという話がありますけれども、私たちにとって一番大切なのは「母語」、つまり日本語なのです。日本語を母語としてしっかりしておかないかぎり、あぶないのではないかと僕は思います。
もちろんバイリンガル、トライリンガルがうまくいっている地域が世界にはあります。それは、フランス語と英語、スペイン語と英語、中国語と朝鮮語、という言語の使われ方がその地域できちっと分けられているからです。分けられている世界で、家庭を一歩外に出れば、そういう外国語の環境があるというところであれば、トライリンガル、バイリンガルのことがいいと思いますし、小学生でやるのはまず問題ないでしょう。
日本という地域では日本語しかありません。そういう世界では、下手に英語で間違ったものが入ってしまうと問題があるように思います。
コンピューターのOSというのがあります。Windowsとかマックですが、そのOSの上にWordやExselとかパワーポイントなどが乗るわけですね。OSがしっかりしていない限り、WordやExselは動いてくれません。つまりOSとしての日本語という母語がしっかりしていないかぎり、その上に英語を乗せてもうまくいきません。逆に日本がしっかりしていれば、英語は乗ります。あるいは中国語も乗ります。フランス語も乗ってきます。それはOSをきちっとできるからです。私は、小学校まではOSをつくる時間だと思います。下手にそのOSに変なものを混ぜないほうがいいはずです。
実は私の子供もバイリンガルになりかかってしまいました。子供のときにアメリカにいましたから、5歳まで日本語と英語のバイリンガルになってしまいました。それで日本に帰ってきたときに日本語だけにしようと思いました。英語をやっても中途半端になってしまいますからね。変に英語がはいるとおかしくなるだろうと思いました。とりあえず日本語をきちっとおさえておかないと、あとの思考といいますか、感じ方というものをすべて決定しますから。不思議な人間になってしまうのはちょっと可愛そうだったので、一生懸命に日本語を教えました。
もちろんいろいろな考え方の先生がいらっしゃいますからわかりませんが、私は子供に英語教育をするというのはちょっとどうかなと思っています。

■Q:それでは外国人が日本語を学ぶのはどうですか?
金田一:同じですよ。14歳くらいから外国語を勉強するのが一番よいと思います。OSとしての日本語、あるいは英語という母語がきちっとした段階、ようするに今の中学校で英語を始めるのはまったく正しいと思います。ある程度の日本語の漢字力、それから論理力、構成力がついた段階で英語をやればそれはよいと思います。それは伸びます。
たとえば12,3歳でアメリカにボンと連れて行って英語をパッと習わせるというのはとても有効なやり方です。もちろん日本語の補助をいっぱいしなければいけませんが、それと同時に英語を教えるというのは、発音もきれいになりますし、自然な習得になりますからとてもいいと思いますね。たぶんそれが理想的なのではないでしょうか。
もしお金があれば、14歳になった段階で子供を外国に連れて行って、学校に入れて、日本語の優秀な家庭教師を周りにつけて、家に帰ったら日本語をガンガンやって森鴎外でもなんでも読ませながら、学校でシェークスピアを読ませる。とできればとってもいい教育ができる。これはたとえばの話ですよ(笑)

■Q:標準語とか共通語という言い方がありますが?
金田一:共通語と普通は言います。標準語とは言いません。標準語というと標準なのだから正しいとか、標準なんだからそれにやるべきだという意味合いが入ってしまいます。標準語というと価値的になって、標準語は善くて方言は悪いということになってしまいます。それはあまり嬉しくないので、「共通語」という言い方をしています。
共通語というのは皆がお互いに知っているもので、たとえば青森の人と沖縄の人が出会ったときにどんな言葉で話すかというと、津軽弁でもなければ沖縄弁でもない、共通語を話すということになっています。
その共通語はどのように出来ているかといえば、現在の日本では東京を中心としたエリアの言葉がだいたい中心になっています。しかし山口から来た言葉とか、鹿児島から入ってきた言葉が共通語の言葉に使われていることがあります。たとえば警察官が「おい、こら!」というのは鹿児島の薩摩弁だったりします。「いきます」「します」という「ます」は、たしか山口の言葉、長州弁です。ようするに薩長が明治政府をつくったときに薩摩の言葉、長州の言葉も同時に東京に入ってきています。東京の言葉は東京の言葉だけではなくて地方の言葉も入った、そういうふうにできているのが共通語です。
逆に言えば東京の言葉でも共通語に入っていないものもあったります。私たちは「葉っぱ」「根っこ」とか言いますが、これは教科書にはありません。小学校にあがって教科書をみても「葉」「根」とあります。「葉っぱ」と書くと怒られるんですよ(笑)これは東京弁なのです。「葉」「根」と言わなければなりません。このように東京方言もあるわけです。
《鍵を示して》これはなんですか?(キーです)それは英語ですね(笑)そう、「カギ」です。これは「ガ行鼻濁音」で、カギではなく、 と発音するというのが昔の共通語です。NHKのアナウンサーは と発音します。ガ行鼻濁音は昔の共通語にあるのですけれども、今はなくなっている。東北地方だとガ行鼻濁音がやたら多いです。鼻に抜けた発音をするのが多いですね。江戸方言は東北方言ととてもよく似ていて、ガ行鼻濁音がありますが、関西とか九州はそういうのがないのです。全体的には鼻濁音がなくなってきています。
また新宿を「しんじく」と言うか「しんじゅく」と言うかですが、「しんじく」が東京方言です。しかし「しんじゅく」と言うのが共通語です。東京人は「新宿(しんじく)」とか「原宿(はらじく)」と言いますね。気がつかないところで結構あるんですね。しかしあまりそういうことをいってもしょうがないですから。(笑)

■Q:方言は地域の生活環境に影響しているのでしょうか?
金田一:私たちは気がつかないうちに方言を使っていることが多いですね。たとえば、《茶碗にご飯を入れる格好をして》こうすることを皆さんはなんと言いますか?(盛る)いっぱいあるんですよ(笑)「よそう」、「よそる」、「つける」、「もる」あるいは「よそぐ」と言ったりする人もいます。お互いお隣同士で違っていたりします。ようするにこれは家庭語といって女性が使ってきた言葉なのです。おばあちゃんが娘を育てるときに「ご飯をよそう」と言えば、娘も「ご飯をよそう」のだと思う。そして結婚して娘を育てるときに、やはり「ご飯はよそう」と教える。これらは他の家の人と交わす言葉ではないので、それぞれ「よそう」、「もる」と思ってしまうわけです。(笑)こういうのは家ごとに全部違っていたりします。女性を介して伝わってきた美しい言葉だったりするのです。それが間違っているといったらとんでもない話です。だから自然に今ある日本語をお使いになるのがいいと思いますよ。あまり気にしない方がいいのです。(笑)

■Q:言葉の乱れを嘆く人も多いのですが、このことについての心配はありますか?
金田一:私は言葉が乱れているとは一切とらないですね。変化している、変わっているのだと理解します。また変わることこそ言葉の命なのだと思います。変わらない言葉は死んだ言葉ですよね。たとえば古語というのは変わらないですね。ラテン語というのはあまり変化しません。誰も使っていないですから。ラテン語は正しいラテン語しか残っていません。正しいというか、古い形のラテン語ということになります。もちろんラテン語を使っている一部のエリアがあるのですけれども、あまり変化しない。アイスランド語も変化しません。何か不思議ですよね。
変化するのが本当だと思います。それを乱れとして価値的に低いというふうにとることはないだろうと思います。もちろんよくなっているとも思いません。日本語がよくなったとか悪くなったとかいうのではなく、日本語は変わったんだとしかとらない。成長しているとも思わないし、まあ変化している。変化しているからこそいいんだなと思います。

■Q:日本語を使う日本の未来についてはどのように思われますか?
金田一:わからないんですよね。(笑)しばらく前には敬語はなくなるだろうという予測はかなりありました。「です」、「ます」、で終わってしまうだろうと。しかし今の世の中は敬語化がとっても進んでいますね。不思議だなと思いますが、敬語的になったり反敬語的になったり、そういう波があります。それから簡略化に向かうのと複雑化に向かうのも、これもこういう波ではないかと思います。どっちになるのかわからない。日本語学者というのはそれを観察する立場であって、指導する立場ではないのです。こうだと示す立場ではないのだと思いますし、皆さんがお使いになるのが正しい日本語であると思います。

■Q:最後に金田一先生の好きな言葉がありましたら、ご紹介ください
金田一:困るんですよね、一番好きな言葉というと「棚からボタモチ」だとか(笑)、「舌先三寸」とか(笑)そんな言葉ばかりが好きですけれど(笑)。
そうですね、最近ちょっといい言葉を知ったのは、「種智」という言葉です。智恵の種。仏教の言葉なのですが、私たちには言葉ではわかっていても納得できない知識はいっぱいあり、それが種として残っていて、それが10年、20年経つと、それがパッと芽が出て、花開いて、実るというものです。
その種智、知恵の種みたいなものをいっぱいためておくと、これから歳をとって生きていくと、いつの間にかポコッ、ポコッと「おお、そうだったのか」と納得する種が、いっぱい入れておくと出てくることがあるんだよというお話をお坊さんから聞きまして、「種智をいっぱいためておこうかな」と思いました。また私は教壇に立つ者ですから、生徒たちにも「種智」をいっぱい撒いていこうかなと思っています。

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2006年3月3日発行  NPO法人ザ・シチズンズ・カレッジ