【第105期講座】2011年04月-2011年09月

江本 孟紀の講座リポート


■はじめに
 プロ野球解説者の江本孟紀氏は、プロ野球選手としての野球人生とその師である名将・野村克也氏との出会いについて、さらにはプロ野球界への提言を軽妙な口調で語っていただいた。また会場には熱心なプロ野球ファンもいて質疑応答の時間には具体的なプロ野球選手の名前をあげながら質問が飛び出したのも江本氏の講座ならではのことであった。

 さて、江本氏がプロ野球選手として活躍する背景に、野村克也監督との劇的な出会いがあったとのエピソードには心うたれた。野村監督の人間の才能を引き出し、成長へと導く秘訣の一端が明らかに語られたことから、やはり人生は善き師と出会うことが何よりも大切なことであると思う。中国の古典である易経には「潜龍」から「飛龍」まで六段階の龍の成長の物語がある。それは地に潜む龍(潜龍)が大人(たいじん)という師匠に見出されて世に現れるところから始まるとされている。その師匠に見出されるためには、潜龍のときにこそ本人がどれだけ高い志をもっているかが求められるのだという。

 つまりは江本氏もさまざまな出来事に遭遇しながらも、人生の夢としてプロ野球選手の道をあきらめなかったからこそ、善き師である野村氏との出会いにつながったのだろう。

■プロ野球選手への夢
 江本氏の野球人生を振り返ってみると、小学校から巨人の長嶋茂雄選手に憧れて野球に打ち込んでいく。高知商業ではピッチャーと4番打者で大活躍し実力を発揮していった。そして夢の甲子園を目指し、高校三年になる年の春に選抜高等学校野球大会への出場を決めた。しかし野球部員の不祥事があって2年間の出場停止となり、夏の甲子園もあきらめざるをえず、江本氏が描いていた甲子園からプロ野球のドラフトへの夢は絶たれることになる。
 それでもプロ野球への夢をあきらめきれず、法政大学に進学し六大学野球に望みをかけていたが、監督への反発や折り合いの問題もあって、最終シーズンはベンチからも外れていたようだ。

 大学4年のときのドラフトにもかからず苦汁をなめながらも、やはり野球にのぞみをかけてノンプロとして熊谷組に進み、社会人野球で過ごしながらプロ野球への夢を持ち続けていた。それでようやく1971年初め、ドラフト外であったが東映フライヤーズに入団することになる。夢のプロ野球選手になったという喜びは大きく、すでにキャンプが始まっていたが、希望に胸をふくらませて参加したという。

■野村監督に見出されたピッチャー・江本孟紀選手
 東映フライヤーズに入団した1971年のシリーズでは、最初は一軍スタートをしたもののすぐに二軍に落とされた。江本氏はその二軍での経験がその後のプロ野球選手としての大切なものを学ぶいい機会であったと次のように語る。

「何しろ二軍では投手が三人しかいないので、ローテーションは当然三人となります。投球数が増えて肩が張ってきても、常に先発完投しなければならないというのはきつい。しかしこれによって一年間のシーズンを投げ切るスタミナと強い精神力が鍛えられたと思いますね」。

 その後、1軍に昇格したとき「もう絶対に2軍には行きたくない」(笑)と心に決めて、それ以来選手生活を引退するまで2軍に落ちることはなかったという。
 そうしてプロ野球選手1年目のシーズンは中継ぎ程度であったそうだが、シーズン後のオフにトレードとなり、野村克也監督兼選手の率いる南海へと移籍することになった。

 このとき江本氏と野村監督との邂逅ともいうべき運命の出会いがあったという。
 江本氏は監督室に呼ばれて、やや緊張しながらドアを開けた。椅子に座ったまま野村監督は「俺がキャッチャーでお前の球を受けるんだから、わかるな。俺がお前の球を受けるのだから、お前は来シーズン10勝するぞ」と江本氏に静かに語りかけた。

 江本氏は「野村さんの言葉に本当にしびれました」と当時を振り返ってその感動を伝えてくれた。
さらに続けて野村監督は「うちで10勝するなら、そらぁエースだわな。だったら最初からエースの背番号をつけとけ」と言って、エース番号16がついたユニフォームを手渡されたという。江本氏は「あまりの感動に全身が震えました」と野村監督との感動的な出会いの場面があったと述懐している。
 1972年のシーズンでは背番号と同じ16勝したというのも、選手の能力を最大限に活かす野村監督の真骨頂を見るような印象に残るエピソードである。

■江本氏からみた名物監督・野村克也
 名将・野村克也という表現に対して、江本氏は「野村さんは決して名将ではありません。まぁ名物監督ですな」(笑)と異を唱える。名将と称されるためには監督としての実績が必要であるが、たとえば巨人軍のV9で知られる川上哲治監督のようにリーグ優勝11回、日本一11回というとてつもない実績を打ち立てていれば名将と称することができるだろうと指摘している。ちなみに野村監督はリーグ優勝5回、日本一は3回でこれは素晴らしい実績であることは間違いなく、実績としても名将ではないかと思うのだが。

 参考までに野村監督と現役時代からよく比較される長島監督はリーグ優勝5回、日本一は2回という実績である。江本氏は、巨人を率いた森監督はリーグ優勝8回、日本一は6回であり、実績からすれば名監督ということができるだろうと指摘する。
 江本氏の野村監督は名将というよりは名物監督であると称するところに、江本氏の野村監督への深い思いが伝わってくる。「野球とは何か?」を追究し続けて、野球を愛し続ける野村監督の世界が江本氏にとっては強い印象があるように感じた。

 江本氏はその後、南海から阪神にトレードされ、阪神のエースピッチャーとして活躍することになる。のちに「ベンチがアホやから野球がでけへん」と監督批判をしたが、「チームとファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪し現役を引退したことはあまりに有名である。江本氏は「私はフロントがアホやからとは言っていません。ベンチがアホやからとは言いましたが」(笑)と当時の話を振り返り、その弁明として「これは野村さんが悪い(笑)んですよ。監督というレベルを野村さんに合わせると、それはやることがアホやとなりますよね」と語っている。

 江本氏によれば、野村監督の投手交代の采配に疑問をもつようなことはまったく無かったらしく、当時の監督の投手交代について納得ができなかった現われであったとのこと。それほどまでに野球の真髄を追い求めている野村野球に魅了されたのであろう。

■むすびにかえて
 ピッチャーとはプライドの塊である。マウンドに立っているピッチャーがボールを投げなければ試合は始まらない。ピッチャーが弱気なったり、不安になったりすると結果が直ちに出てしまう。だからこそプロ野球の監督はピッチャーの起用に何よりも心を砕くものである。

 ところで江本氏が南海時代にリーグ優勝して胴上げ投手になったとき、当時の野村監督兼選手は劇的な起用をした。1973年の阪急とのリーグ優勝決定戦は9回裏、一打逆転サヨナラの場面で野村監督は江本をリリーフさせる。このときの江本は中1日でまったくリリーフできるような状態ではなかったという。
 江本氏はもう優勝が決まったものとして安心していたところ、ツーアウトでありながら一打逆転の場面を迎えてしまった。阪急の打者は代打本塁打世界記録保持者の高井保弘選手だったので、野村監督の最後の決断は江本氏のリリーフであった。肩も暖まらないままマウンドに上がった江本氏だったが、野村監督のリードに支えられて見事に三振に打ち取った。
 カウントはツーストライク・スリーボールで最後のボールはストレートを要求、江本氏の得意なカーブを待っていた高井選手はタイミングが合わず三振した。打者の心理を読み抜いた見事なリードであった。

 その後の日本シリーズでは江本氏が夢にまで見た巨人との対決で、第一戦に登板し見事に完投の勝利投手となっている。しかし日本シリーズの結果は巨人が勝ち、V9を達成した歴史に残るものとなった。勝負をめぐるドラマは常に劇的であるが、江本氏が野村監督との出会っていなければこのようなドラマの中心にいることはできなかったに違いない。

 そして江本氏と同様に野村監督と出会うことで野球への目が開かれて再生していった選手は多く、「野村再生工場」とまで形容されるほどである。江本氏に野村監督が選手の何を観ているのかと問いかけたとき、江本氏は「それはその選手の精神性でしょうね」と語っておられたのが印象に残っている。プロ野球の選手ともなれば、野球の技術レベルは高いので、問題があるとすれば精神性の部分だけなのではないかと。
 野村監督がその選手の精神的な問題や課題を「考える」ことによって紐解きながら、野球への情熱とあるべき方向性が示されるということなのであろう。

 プロ野球の監督として、選手の個性や能力を引き出し、個性と個性を組み合わせ、チームのゆくべき方向性を指し示しながら、必ずゴールする。そのために考えて、考えて、考え抜くことが求められる。江本氏が「ベンチがアホやから」と叫んだのは、裏返してみれば「考えろ、頭を使え!」という野村監督の思想そのものだったのかもしれない。

【参考までに】

南海最後の優勝 S48 パリーグ・プレーオフ 野村&江本 1/2
http://www.youtube.com/watch?v=WM4lmqw1KfE&feature=channel_video_title

南海最後の優勝 S48 パリーグ・プレーオフ 野村&江本 2/2
http://www.youtube.com/watch?v=2Pbv9hmN2WQ